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子宮内膜症あり。不妊歴1年半、不妊治療歴8ヵ月。AIH4回、2回めに妊娠&流産、4回目に再び妊娠。アメリカ在住の高齢不妊治記録と妊娠記録。


by formyblog68
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日本では大晦日に大掃除をするが、アメリカでは「スプリング・クリーニング」といって春先に大掃除をする習慣がある。
ちょうど衣替えとも重なるし、暖かくなって窓も開けられるし(換気)、動きやすくなるし、大掃除にはいい時期だと思う。

ミニマリストや断捨離が流行って何年も経つが、アメリカでも去年あたり「こんまり」が流行り、職場でも片付けることを「コンマリイングしている」など動詞化して使っている人もいるぐらいだ。

私も家中のモノを減らしたくて片付け始めた。
片付けているとどんどんエンジンがかかってしまって、あれもこれもとドネーション・ボックス(バザーのため寄付を頼まれるとそのまま出せるようにしている箱)に入れたくなってしまう。

そこで改めて気づくのは、日本の百均やアメリカのダラーショップで買った便利グッズは、ほとんど使わないということ!買った当時は喜んで使っているが、すぐに使わなくなる。

例えば、収納ケースや収納バスケット。ごちゃごちゃと入れてあったものを片付けると収納ケースそのものが不用品になる。

靴を上下に重ねて収納するラック(片足分で一足が収納できるというあれ)は、日本の百均で見つけたとき大喜びでいくつか買ったが、夫の靴が大きすぎて全然使えなかった。日本人でもメンズの靴は無理じゃない?あれを使えるのはハイヒールとパンプスと小さな靴だけだよね。子供靴も足首が隠れるものはカカトがつっかかって入らなかった。

逆に大変重宝しているのは、日本の百均で買った洗濯ネット、パソコンのキーボードカバー。でももう増やさないようにしよう。

百均じゃなくても、収納ケースは使わないね。アート&クラフトの店で買った持ち運びができる収納ケースも、結局大きめの茶封筒(黄色い封筒)がギッシリ入って地下室に置きっ放し。ほとんど無意味。

私自身を含めて、うまく片付けられない人ってだいたい収納スペースや収納ケースは使いこなせていない。部屋中めちゃくちゃなのに収納スペースが空っぽ、ってことが多い。私もそういうところがあるからよくわかるんだけど、収納してしまうと見つからなくなるような気がするのと、見えないところにギッシリと何か詰まっているっていうのが苦手なんだと思う。

ちょっと使って、またすぐ使うときのためにちょっとその辺に置いて・・・その繰り返しであっちこっちにモノが散乱。そしてどっちにしろ見つけられない、というパターン。だから収納ケースは片付けられない人にはご法度です!
テレビの片付け名人がよく綺麗に収納して見せているけど、たぶん一ヶ月後に、収納ケースは空っぽで外にモノが散乱しているね。

私は自分がよくわかっているからこそ、モノを増やしたくないのだ。
モノを探したくないから、片付ける場所はきちんと決めたいのだ。
でも子供がいるとなかなか思い通りにはいかないから、結局できるだけモノを減らすしかない。でも学校や家の中でなくされてどうしても見つからず、結局買うことになったりするものも多く、本当にうまくいかない。


さて、ほかにも多いなあと思うのは、義母や義姉妹たちからクリスマスにもらったもの。
贈り物をする習慣、本当にやめてほしい。

女性は国籍や人種を問わず買い物が大好き、お買い得品はもっと大好きだから、クリスマスなんか女性はストレス解消のために買い物をしている人も多いと思う。自分が可愛いと思った雑貨を、罪悪感なく買えるチャンス(使い道も深く考える必要がない)。

義母はブレスレットが大好きだ。でも私は大嫌い。手首に何かあるとなぜかビリビリ電流が流れるような気がするから。
義母は私がブレスレットをしないことに気づかないようで、よくくれる。ありがたいことにある程度のお金は払っているだろうなと思われるものをくれるので、二束三文で売られるバザーなんかに寄付したくない。すると使わないのに溜まってきて困る。

だから、クリスマスはもうほしいものをちゃんということにした。手袋、スリッパなど。それならちょっとお金をかければ上等なものが買えるし、こっちも助かる。

義姉妹にはオーガニックのボディソープやローション、リップクリーム、と伝えたら、それらをくれてありがたかった。ただし翌年はメイド・イン・チャイナのボディソープとローションのセットをくれるようになってしまい、これは未使用のままバザーに寄付している。中国製といえど$10はしただろうから、こんなのをくれるならオーガニックの石鹸1つのほうがまだマシなのになあ。でも安くて見栄えがするものとなると、石鹸1つのわけにはいかないんだろう。

毎年ちゃんと言っておかないと、すぐにどうでもいい置物をくれるから困る。雑貨屋さんで見ると「可愛い〜!」となるけど、家に持ち帰るとゴミになる類のグッズ。

派手な柄の、巨大なガラスボウル。
天井からつるして使うガラス製の植木鉢。
可愛い一輪挿し。
窓に下げるステンドグラス(くさりの部分がすぐ壊れた)
サンキャッチャー。
ウィンドチャイム。
人形。
卓上フレーム。
空中に浮いたように見える磁石入りの地球儀。

どれもこれも、それだけ見ると楽しいし、使えそうなんだけど、これをセンスよく全部家に飾ることは私には無理だし、モノが増えすぎて埃を掃除するだけでも大変。だから、要らないの・・・。そして何より、これを私のために選んでくれて、たとえ数ドルでも私のためにお金を払ってくれたのにバザーの寄付直行というのが、もったいなくて申し訳なくてたまらない。塵も積もれば山となる、だよ。

一番嬉しいのは、義父がくれるビザのギフトカード。これは忘れないうちにすぐにスーパーで使う。これだけの食材や生活用品を義父が買ってくれたと思うと、ありがたくてありがたくてたまらない。本当に助かる。

さて、何をドネーション・ボックスに入れるか。ガレージセールはたぶん一生しないと思うから、私にものをくれないでください。


# by formyblog68 | 2019-05-28 02:14 | 独りごと

夫の愚痴。疲れる。

その1:

ゆうべは具合が悪くて、やりかけた夕食の後片付けの残り少しを、夫に任せて、寝てしまった。

でも、鍋の底に汚れがこびりついたままだった。
鍋の下が、脂でヌルヌルしていた。
食洗機に入れてはいけない食器が、入っていた。
カウンターが拭いてなかった。

これでも「やってくれてありがとう」と笑顔でお礼をいうのが正しいのだろう。


その2:

今日、家の修理のために業者が来た。
アメリカの業者というのは、顧客の家が汚れないように気を使ったりしない人が多い。在宅だとそれなりに気を使う様子は見せるが、それは「見せる」だけで、ちょっと目を話すと平気で家中ホコリだらけにされる。

以前、地下室の修理の業者が一階に続くドアを開けっ放しで作業をしたため、舞い上がったホコリが家中に広がり、家中の床や家具が真っ白になったこともある。(私たちが在宅のときはドアを閉めて作業するが、家を空けた日にやられた)

だから今回、私たちは家中の家具を部屋の隅にかためて、シーツをかぶせた。

前置きが長くなったが、今回の業者は私たちが在宅だったためか、最後に掃除機までかけて帰っていった。

よかった・・・と思い、家具にかけていたシーツ類を剥がして洗濯しようとして気づいた。夫に頼んだ部屋の家具には、なんと毛布がかけてあることに。シーツなら何枚洗おうとたかが知れているが、毛布だとそうはいかない。夫は一体何を考えているのか。引越しじゃないんだよ!


その3:

夫は家を空ける前に、私にあれこれと指示を出していく。子供に宿題をやらせろ、楽器の練習をさせろ、〜をさせろ、あれこれ。

子供たちは私のいうことはあまり聞かないので、私はイライラする。子供たちに、というのもあるが、帰宅した夫に「え?やらせてないの?」と呆れ顔をされることにイライラしたのだ。つい子供たちに「あんたたちがちゃんということ聞いてくれないと、パパに嫌味を言われるのはママなんだから、ちゃんとやりなさいよ!」と言ってしまった。

とても不健康だ。

夫にこれを話した。ふざけんなよ、なんであんたが司令塔で、私がオンサイト・マネージャーなんだよ。

夫は「僕もたくさんしていることで、君が気づかないこともたくさんある。チームワークなんじゃないのか」と言った。

そりゃそうだ。でも子供たちは私のいうことはなかなか聞かないってこと、夫に何度いってもわからないらしい。私が静かに話しているうちは絶対いうことを聞かない。ちょっと厳しめの声を出すと、返事だけ「はーい」なんて言ってるくせに、まだ聞かない。ついにドスのきいた声で叫ばないということを聞かない。それがとても疲れる。

でも、夫の場合は違う。ちょっと厳しめの声で一度いうだけで、子供たちはぴしっということをきく。

母親は優しい、父親は厳しい、というスタイルが一番バランスがいいんだよ、二人とも怖かったら子供たちは萎縮しちゃうよ、と言われたこともあるが、こっちは疲れてたまらない。

だから、私の苦労を理解できない夫にあれこれ指示されると本当にイライラする。もうやらねーからな!

・・・更年期障害の愚痴です。
いい加減生理もあがってくれないと困る。更年期なのになかなか生理があがらないと、貧血になって骨髄が赤血球をたくさん作る病気になるらしい。本当にいやになる。



# by formyblog68 | 2019-05-26 09:24 | 夫の愚痴
不妊治療をしてやっとの思いで妊娠し、出産し、必死に子育てしている私。
妊娠したときの喜び、生まれたときの感動、日々の幸せを感じつつも、ときどき疲れてしまって「子供なんて産まなければよかった」とふと頭をよぎってしまうことは、正直言ってある。みんな言わないだけで、きっと誰しも一度は感じたことはあると思う(うちの親はきっといつも思っていたと思う)。

私の場合、その思いを突き詰めていくと、実は「自分が生まれてこなければよかった」に行き着くことに気づいた。

ひと昔前ならもう孫がいてもおかしくない年になって、まだこの思い。
自分が子供のときは、大人は何も悩まず、ふっきれて生きていると思っていた。
祖母も、90を過ぎて他界するまで何かを悩んで生きていたのだろうか。
まわりのヨボヨボの老人たちも、まだ「生まれてこなければよかった」と思うことはあるのだろうか。

「生まれてこなければよかった」で検索してみると、「だめな自分を受け入れる」「自分を責めない」などいろいろ出てくるが、どれもピンとこない。なぜなら私がそう思うには、確かな理由がないからだ。

ただ、ただ、疲れた。

疲れた、疲れた。

これだけ。

先日、健康診断で血液検査をしたら、ひどい貧血症になっていた。これも原因だと思う。
橋本病もある。これも原因だろう。

ストレスがたまっていて、友達も少なくて、このブログしか話し相手がいなくて、気分転換できる場所も未だに発見できていなくて、更年期障害で、このごろは夫ともろくに会話がなくて、楽しいことは食べることのみ!そのせいで血圧もどんどん上がってきている。

まだ子供たちは小さい。

私は夫と二人きりで出産し、子育てをしてきた。双子なのに手伝ってくれる姉妹も、母親も、義母も、そばにいなかった。夫と二人で手探りでここまでやってきた。

だからこそ、娘たちが妊娠・出産するときは、そばにいてやりたいと思う。だから私は健康で生きていなくてはならない。

なのに、ただただイライラし、毎日クタクタに疲れて、それでも同じことの繰り返しの奴隷のような家事をこなし、フルタイムで仕事をし、それでも裕福とはほど遠く、なんとか老後に備えることだけはできている状態。子供たちの宿題を見てやるのも、習い事の練習をさせるのも、テスト勉強をさせるのも、とてもとても大変だ。

とにかく疲れた。

精神的にも、肉体的にも。

夫はいう。運動をしないからだ、と。

こんなに疲れていて、こんなに家中駆けずり回って家事をしていて、そのうえなぜジムに行って運動などできようか。

人生は楽しくない。いつも書いているけど、人生は私にとって修行であり学校だ。脱落はしたくない。勝手に卒業することはゆるされない。毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日、修行なのだ。

甲状腺の薬を増やさないといけないのだろうか。先日、あまりの貧血のため鉄分の点滴を打った。血圧も、これ以上上がると薬を飲むことになると言われた。

すべての原因は、私の場合ストレスだと思う。なぜこんなに不幸なのか。私にはわからない。うつ病診断テストをやると、私は必ず「うつ病の可能性99%。すぐ病院に行ってください」という結果が出る。私がもしカウンセラーで本音を言ったら、精神病棟直行だ。

でもこれはうつ病じゃなくて、体の病気だと思う。または脳内物質の問題だ。考え方を変えるとか、そういうのはもう超えていると思う。私の脳みその中は、エンドルフィンもドーパミンも生み出さない。ノルアドレナリンだけ出ているのだ。

疲れた・・・死んだらずっと眠っていられるのか。無になれるのか。ちょっとは幽霊になってあっちこっち見て歩いて、人を怖がらせて、心霊スポットになったらさっさとあの世に行って「なーんだ、何も出ない」とガッカリさせてやりたいわ。

でも途中で人生を投げるわけにはいかないから、生きていかなくてはならない。

# by formyblog68 | 2019-05-22 08:49 | 独りごと
先日、母親からのメールにいろいろ自分語りが書かれていた。

自虐の笠を被った自己確認。

もうすぐ80なんだからそろそろ運転免許証は返納したほうがいい、という私に対して長々と、自分の健康と認知力に対する感謝、自分の直感に従って生きることの大切さ(でも書いてあるのは「お母さんはいつも自分の直感だけを信じて行動しちゃうからだめなのかな、でもね・・・」と続く)、独立して生きてこられたことの幸せ、等々。

私は、読み飛ばした。

いつもそうだったから。

母は、こういうのが大好きだ。だから他人からは「言葉を聞いて元気が出た」とか「感動した」とか言われる。実際に行動派だし、目立つことをするのも大好きなので、「一緒にいると元気が出る」「楽しい」とか言われることも多い。

でも私が見てきた母は違う。

承認欲求が異常に強く、常に私、私、私。

ろくに料理をせず、ほとんどレトルト。
家の中はいつも汚い。娘である私がどんなに掃除しても、汚すのが母親。

稼ぎはいいから、金の匂いに敏感な人(ネズミ講や新興宗教)がすぐ寄ってくる。承認欲求が強いので、すぐ商品を買ってやったり、宗教の人を家に招いてやったりする(そして子供はないがしろ)。

私は食事がレトルトであることを、他人に指摘されるまで普通のことだと思っていた。高校生のとき友人の家でそのレトルトのビーフシチューを作りながら「これが私が一番好きな母の料理なの」と言い、友人に「えっ、母親の一番の料理がレトルトなの?」と驚かれて、初めてそれが普通でないと気付いた。

でも他人から見えるところはかなり素敵に演出するので、私は友人から「憧れのお母さん」とか「憧れの家族」などとよく言われた。

そりゃそうだろ、人が家にくるとなると、母が徹夜で家中ピカピカにするのだから。テーブルなんか白いレースの布までかけちゃってさ。他人が開けるであろうカトラリーの引き出しなんかもびっちり整える。「そこに入っているナイフを出して」と母に言われて引き出しを開けた客が「まあ!」と驚く仕組み。

でも本当に親しくなってしまうともてなさなくなるから、もてなしを餌に近づいていた他人はそのうち離れていく。
そんな取り巻きばかりだから、「友達」はいつも違う。

そんな母は、今は遠くに住んでいる娘の私にも、ある程度の「他人」を認識しているのか得意の自分語りをするようになった。私がそんな話を聞いても笑って相手にしないほど、真実を知っている身内だということを忘れて。

だから私は自己語り云々をする人が嫌いだ。私のブログもそういうところはあるけど、いいんだよ、私はほとんど愚痴なんだから。悟りを開いているわけじゃないんだから。人類の心の底辺をウロウロしているだけのブログなんだから。

ブログであろうが、動画であろうが、自分語りなんかしていかに自分が何を悟って生きてきたか、何をして幸せを感じたか、そして人を助けてあげたいか、そんなことをいう奴が大嫌いだ。とくにそれが家庭を持つ母親だった場合。

じゃあどんな母親が私の理想かというと、磯野フネさんなのだ。

もちろんマンガだし、そのように描かれているだけだとはわかる。でも、ああいう母親はいた。

私の祖母がそんな女性だった。

承認欲求はない。あったとしても自分の中で完結していて、強い自信に満ちている。磯野フネも、カツオに「女性であることをどう思う?」と質問されて、「母さんみたいな人を男にしたらもったいないよ、料理上手でやりくり上手で愛想が良くて・・・」と繕い物をしながら答える。フェミニズムとは逆のところにいる女性なのに、何よりもフェミニズムの真理に近いではないか。

マンガのオチは、それがカツオの宿題だったと知り、顔を真っ赤にしてカツオを追いかけるシーンで終わるのだが、つまりそれだけ強い信念を持って女性として生きているにもかかわらず、それをいちいち公表することも主張することもしない。自信があることを他人に知らせる必要がないほど、そしてそれを恥ずかしく思うほど、謙虚であるのだ。

私の祖母もそうだった。もちろん完璧ではない。頑固だったし、私もいろいろぶつかることはあった。でも、女性として、母として、私は祖母を尊敬できた。祖母は自分の信念や感想や気持ちよりも、自分の責任や立場というものを無意識のうちに深く理解し、受け入れ、全うしていた。自分を犠牲にしていることすら自覚せず、ある意味気づかないことは幸せであると思わせられた。ちょうど宗教になんの疑問も抱かず心底信じている人が幸せであるように。

そしてその代表が磯野フネだと思うのだ。

磯野フネ、そして私の祖母は、長々と自己理念を語ることはしなかった(私のように)。
磯野フネ、そして私の祖母は、自己犠牲に無頓着だった(私とは逆)。
磯野フネ、そして私の祖母は、人に認められなくても褒められなくても、やるべきことだと受け止め、黙々と全うした(私は愚痴ばかり)。

長々書いてきたが、つまり、磯野フネこそが私の理想とする母親像。私の母親はそうではなかった。
これが言いたかったことである。なんだこの結論。くだらねえ!!!







# by formyblog68 | 2019-05-20 00:26 | 独りごと

Happy Mother's Dayと言われて

あるお店で帰り際、店員さんに「ハッピーマザーズデー」と言われた。

そのとき私は一人だったので、なぜ私が母親だという前提で祝ってくれるのだろうと不思議だった。
あ、年配女性である私は自動的に「母親」だと判断されるのか、とすぐわかった。

でもこういうった疑問が頭を巡ったのはほんの一瞬であり、実際にはすぐに笑顔で「ありがとう、あなたにも!」と答えたのだった。
するとその店員さんはとまどったまま返事に詰まり、私はそのまま店を出た。

私は、不妊治療経験者である。
流産も何度か経験している。

店員さんはたくましい体型だったので年齢不詳だったが、実際にはかなり若くてまだ独身だったのかもしれない。
いや、もしかしたら不妊治療中かもしれない。
はたまた、子供ができない体なのかもしれないかった。
MTFかもしれないのだ。

見ず知らずの成人女性を「母親」だと仮定して発言することの残酷さを、アメリカの母の日に毎年感じる。
(昭和の日本の八百屋の「奥さん!いい大根入ってるよ!」も同じだったのかもしれない)

それもあって、私は母の日には、義母にしか祝いの言葉は言わない。いや実際には誰にも言いたくない。こんな金儲けに便乗した祝日なんて。
感謝したい相手に個々にいつも感謝していればいいだけじゃないか。毒親だっているし、母親と死別した子もいるし。

まあそれはおいといて・・・

10年以上前かな、テレビショッピングを見ていたときのこと。
リサ・メイソンという女性がホストの日だった。

私はリサ・メイソンが大好きだった。ほかのホストが興奮した甲高い声で商品を紹介する中、リサ・メイソンは落ち着いた声で話し、消費者と電話で話すときも包み込むような温かさがあった。私の、亡くなったステップ義母に似ているから勝手にそう感じていただけかもしれないが。

その日は母の日だった。電話口に出た消費者がリサにむかって「ハッピーマザーズデー!」と言ったとき、リサは「私は母親じゃないけど、あなたにハッピーマザーズデー!」と返した。

そのとき、リサに子供がいないことを知ってなぜか親近感を覚えた。
そしてその悪気のない一言で、埋葬されていたリサの悲しみが刺激されていないことを願った。

すべての成人女性に、無邪気にこの祝いの言葉を投げつける母の日。
なんという残酷な日なのだろう。



# by formyblog68 | 2019-05-11 23:01 | アメリカでの生活